徒然なるaha日記

aha(アハ)という女が綴る日々

ほどける感触

休日の街中。連絡が不通になった親友Aの元夫Bに偶然会った。Aは学生の頃にBに出会い学生結婚をして長女Cを産んだ。しかし色々と大変だった。彼女はその夫と別れCを連れて次の夫Dと結婚し、彼との間にも子供達に恵まれて生活していた。他県だったので、一度だけ私も結婚後に遊びに行った。成長したCに感心したのを今でも覚えていた。

しかし、ある年から年賀状が届かなくなる。しょっちゅう変わった電話番号を全て掛けるが、どれとも彼女に繋がらない。友達Eが彼女の実家にも手紙を書いたが届かなかったと言っていた。実家の近くも通ってみたが、あまり気配を感じなかった。あれから約10年経ったんだ。

その元夫Bに最近の経緯を話したら彼の口から出た言葉に私は慟哭した。その10年ほど前に彼女は亡くなっていたんだと。

なんと、私は今まで知らなかった。何も知らなかった。友達Eも知らなかった。

ショックと共に、まだ自分が自分の中で彼女を弔い終わっていない事に気づいた。私は1人相撲ではなく初めて心から友情を実感したのが彼女だった。彼女のお陰だった。でも彼女の何も支えになれなかった。とても悔やまれる。お別れも言えなかったままこの歳まで来たのだ。

よし、会おう。Aのお母さん、長女C、可能なら夫D、そして彼女の墓参り。

BとLINEを交換し、Aの実家のお母さんに連絡して会うことにした。気配がなかったあの実家にまだ住んであって彼女の経緯を色々聞いたが、やっぱり何か足りない。そしてその長女Cは結婚してママになりF県に住んでいると。そこで本当に偶然に家族からF県に旅行に行こうと話が。

4月は久しぶりに仕事を始めたが、これが全く合わないのがわかりすぐ辞めた。復帰最初にするには心的ハードルが高すぎて、体調が直ぐにおかしくなったからだ。そこでのAの旧姓の上司と、結婚後の苗字の前任者に仕事を教えてもらったり、元夫Bに会ったりと、本当に彼女が私を呼んでるとしか思えないくらいにAに繋がる偶然が多かった。

こりゃ会うしかない!

F県への旅行過程で長女Cに会ってきた。幼い頃しか知らなかったが成長してからのCは本当に本当に生写しみたいにAに似ている。しかし明らかに違うのもわかる。様々な話をしながら、ある程度の事は知っている様子なので、私と同じく子供なのに大人の事情を知らされていたタイプだったんだとわかった。私は、自分のたった1人の娘さえままならないダメな親なんだが、第三者としてなら話を聞いてやれるだろうという気がする。多分、甘えん坊なAとは逆に人へ甘えるのが下手なCに「気軽に連絡してね」と伝えて旅行に戻った。

Aの死を惜しんでくれる人には知らせたかった。共通の仲間だった友達Eは去年の不安定だった私に縁を切った為、電話も取らないので手紙を書いた。たまたま知ってた同級生に、彼の友達だったAの元恋人に伝えて欲しいとその旨を伝えた。Aの中学時代の地元の友達Sさんは数回一緒に遊んだことがあるがこの事を知ってるんだろうか。

そして、本人の許可を得て長女Cの姿を元夫Bに伝えた。それがお互いに良いのか否かは分からないが、それは彼らが決める事。その中継ぎに徹すれば良い。

Aの生き様を非難する人は多かった。でも、私は彼女を責める気にはなれなかった。私の中にもある弱さだし頑なさだし、でも憎めない可愛らしい人だった。急に私はこの10年近くを自分で巻き付けた期待や落胆や人々を、急にほどいていく感触を感じた。うん、私はもっと楽しく、もっと丈夫になるよ。A、あなたと親友でいられて本当に良かった。これからも見守ってね。

Cに会った後に行った居酒屋で、店長の威勢の良さと日本酒と泣きながら飲んだ涙の味を思い出す。あれから旅行でバテて2日間体と頭が痛くてほぼ寝てたけどな。

次は墓参りに行こう。

令和で初めて前を向く

4ヶ月近く、そんなに書いていなかったのか。

最近はそんなに使っていなかったSNSの裏垢でちょいちょい呟いていたから、まとまって書く気合が足りなかったのもあったが、それ以上に頭がまとまらなかった。私はこの半年十数年こじらせた事と、20余年燻った自分自身と、同じ期間仲が良かった親友との関係の3つは、全て壊れたというか変わった。一度は激痩せして精神科の戸を叩いた位だったが「まあ大丈夫だろう」と追い返されたカタチになり、細々と他でカウンセリングに通いながら、心と頭の整理が少しついた。

まず結婚しても割り切れなかった男に会っても何とも思わなかった。もう何もいらないって位に好きな人が現れたからだ。その人とは何もなくフラれたがそこまで誰かを好きになれたのが、自分としてはとても幸せだとやっと思えるようになり、まだまだ生きたいように生きようと確認した。

そして後は自分が生活さえしていけば、夫にこれを見られてももう構わない位に何にも夫との生活に未練がない。早く自活して自由になりたいと思って小さな行動を始めている。健康にも気を遣っている。

気がついたら十数年全てがほとんどうまくいかない自分だったが、それは中途半端に人に頼ったからだ。加害してくる親の事も含めて今の自分に他者が施す安全地帯は無いと自覚し、自分で自分を満たしてやろうと、小さな快楽というか心地良さを日々味わえるようにしたら、元来飽きっぽいし集中力がない私が、コツコツやれるようになった。続けていたダイエットは新婚時より痩せて、あと数キロで学生時代に戻る位になった。ちょっとここ数ヶ月ピクリとも動かないが、それでもその結果に強いストレスはない。気に留まった結果を出せる人達と自分はとてもタイプが違ったのを頭でなく、ようやく心で飲み込めたのだ。

娘もそろそろ反抗期が来だして、親の躾ができる範疇を超えてきている。元々グレーゾーン だから難しかったし、私が口出ししない方が彼女も落ち着くと人からも言われる。人として大事な良心や簡単に嘘をつかないなどの部分は、未発達なのもある程度仕方ないと、心が壊れる前に私自身に言い聞かせている。実際、身内にいまだソコが弱い人もいるからそれも影響しているだろうし。世間一般では母親といる方が良いんだが、あまりに夫の方が父親も母親の顔も両方出来るとても器用な人だから、娘の親権はそっちが良かろう。例外もあるんだなと寂しくは思うものの娘の幸せが一番だ、私じゃ泣かせてしまう。世間からどう言われても仕方ない。実家とも離れると心が穏やかになる。そして、1人になる次を動く。

 

このブログを書き始めた頃は辛うじて父もいた。自分以外入院し死にかけた者もいた。コロナ禍が始まった。稲妻が落ちた。心砕けた。そしてやっと、今ある幸せを少し噛み締めている。歩ける、眠れる、食べられる、甘露がしのげる、話せる、娘が健康、スマホがある等。

前をやっと向くことが出来てきた。

一昔前の義父へ

最近の自分を振り返り、優しい義父をふと思い出した。義父は私に子供ができる前に亡くなった。義両親は大きな喧嘩こそしないがすれ違いの夫婦だったようだ。

普段から帰省すると私以外は皆義母の話しか聞いておらず、義父の話に耳を傾ける私を喜んでくれていたのを思い出す。夫婦は跡取り問題などで両家の間で揉めていたようだった。義母も義父も各実家は跡取りが続かない。彼は義母を本当に愛していたようだったが、義母はそういう行動はなかった。(義母の女としての気持ちもわかるけどね)

事が起きてから葬儀に義母や夫など身内は大泣きした。彼らは自分達の職場から来る献花には目を通すが、私の当時の職場の献花は目に入らなかったようだ。花に限らず、泣き散らすが自分達以外にまるで目が入らず、私は(聞く話による)自分の妹の葬儀以来に酷い葬式を目の当たりにした。

一度ここで、芯から夫を嫌悪した。しかし、これから娘だからと短い間可愛がってくれた義父が見たがっていた孫を、そして血筋を続けたがっていた義父の苗字で産んであげたいと思って、初めて子供を持とうと思い妊娠した。

夫はとても落ち込み救いの手を伸ばしたので、できる限り励ましたんだが、私が父を亡くして同じ立場になった時に彼は違った。あの義実家の葬儀の態度そのものだった。考えたら今の自分は、夫といるうちに似たような人間になったんだと思った。自分しか守ろうとしていないなら、私だって自分の事しか考えたくないと。そのうち彼とずっと夫婦でいたら年老いて1人放って置かれて死んでしまうのか。私は義父のように最期も優しいままでいられる自信はない。少し背筋が寒くなった。

夫が一度危篤状態になった時に、家で言葉にできない空間の歪みを感じてお参りをして彼は生還したが、もしかしたら他者への祈願を起こす私の方を神様は守っていたのかもしれない。

お義父さん、教えてくれてありがとう。もう私は本来の自分に戻す時期なんだね。

同じ星座の父へ

あれから友人に怒られた。どうも邪な理由でその人と会ったと思われたらしい。長らくこじらせていたのを知っていた懇意の仲で、本当に全くそんな気がなかったからこそ、清々しい気持ちだよと伝えたんだけど、不愉快にさせたようで、端的になりやすいメッセージの説明じゃ誤解も多い。ある程度説明した後、私は本当に独りぼっちになるのは仕方ないかと寂しいながらも、普段やってしまいがちな深追いももうやめた。そういう時期なのかもしれない。敢えてLINEからも遠ざかってみる。

その同じ星座の人と会う己の行動動機の一つを自分で掘り下げてみた。そりゃお互い老けたしどこか疲れてたが、皮肉屋だったり、世間話の下に隠れた本音を読む所や、可愛げなかったり弱さを強がる部分もあって、頭の形とか・・・あれ?なんか懐かしい。

・・・父だ。やっぱり似ていたんだ、彼は父に。

私は無性に父に会いたくなった。普通に実家へ帰り仏壇へ手を合わせた。

父は私と同じ星座。亡くなった父には色々と伝え、生きてる母にもうキツいかもと伝えた。

母の車でランチを食べにいく前に、一つリクエストをした。父と母と3人でみた藤の花が見頃な小さなお寺に行きたかったから。

しかし、藤の花はもう時期を少し過ぎていて、入り口そばの濃いめの色は散っていた。今年は咲く時期が早かったようだ。でも、奥にある白と淡い色はまだ残っていて良かった。来年もまた無事で藤の花が見られるように。

神社にも寄った。聖地で久しぶりに気配を感じられる時間を過ごす。自分がどうしたいか、どうなりたいかが、静かな空間に耳を傾けると少し聞こえた気がした。

私は多くの間違いをしていたんだろうし、非常に周りを傷つけたんだろう。思いやりを持てなくなる状態は、我に返った時にとても後悔するだろう。どうもまだ、心がそこまで戻っていない。まずは穏やかに戻していく作業を1日1日していくことだな。やっと今の自分の心が普通じゃないのを、頭が理解し始めたのかもしれない。ほんとに薬いらないのかな?

同じ星座の人

先日は画像が送られてきた。

それは郷土料理。やりとりが細々続いてた同じ星座の人。

もしやと思ったが、こちらにいるとアピールしてきた。私は少し躊躇した。今回のことがあるまでずっと引っかかってた関係だった。なんてタイミング。これが後でも前でも何かが違っただろう。

でも、会おう。会ったらわかる事もある。

普段通り家のことを済ませてスポーツウェアを着て、ウォーキングしながら向かった。外は全て閉まっている時間帯だ。

第一声はなんと言っただろうか?覚えていない。ただ、ベンチで横に座り語った。関係ない話と彼の希望をしばらくやりとりした。私は何も隠すつもりは無かったが、彼は言いたくないことが多そうで踏み入らなかった。目の前の自分がいながら、通行人に話題をうつして本意を隠すのは相変わらずだった。

彼は一人になりたくなさそうだったけど、私は帰宅した。自分の声がそうしたいのがわかったから。

彼と接してて、互いに臆病者ながら、何を言いたいかがわかる相手に久しぶりに会えて心が安堵した。どんなに話し合っても年月が過ぎても、夫とは理解しあえないのだ。何故それをする(言う)のか、何故それをしない(言わない)のか。そこを理解しあえずに、表面的な正しさだけを求められるのがもう辛い。

帰ったら彼から「思ったより若くて驚いた」と返事がきた。単純に「嬉しい」と送り返したが、先日ここで書いた元彼に会いたく無い内容を思い出した。

ごめんなさい - 徒然なるaha日記

あぁ、私は今空っぽなのか。ふと実感した。今この時点での自分の出来上がりが虚しい。

人間はどうせ老ける。どんなに美魔女になろうと本当に若い人に若さで勝る訳ない。実際若い女の子の美味しそうな姿を見ていたら癒される(ヲイ)。私個人は健康と美容はイコールだから努力はするけど、それ以上に内面の深みがなければ、若いと言われたことを単純に喜べるものでも無い。美醜だって、内面の美しさには叶わない。私は内外で自信がなかった。薄っぺらさを嘆くが、自分なりに積み重ねていくしかないし、現時点の状態を甘えてはいけない。

甘えで思い出したけど、親友に最近「昔からいつも貴方は満たされていないね。」と返事がきた。(このことではなく)思ったことを改めて送ったが、返事は無かった。ダメだこりゃと思われたんだろな。色々と間違っているんだろうけど、今の自分がそれなりに答えを探していくしか出来ない。だから今の時点で全ての愛する人に理解を求めてはいけない。味方が誰もいなくても、孤独をもっと受け入れる強さも必要なんだ。もう甘えてはいけない。

彼は私が出来なかったことをちゃんと極めていた。これからの人生を通して自分で生きていかなくちゃ。親友曰く「この年頃になってきたら、自分の身の丈がわかってくるから、自分の範囲でどう上手く勝負するかだと思う」が頭によぎる。

特に子供を産んでから常に社会で怒られやしないかと恐怖で震え、自信が地に落ちたが、土台のメンタルこそ整える必要があった。薬は処方せずとも精神科医が言ったように、少しずつ社会復帰していきながら、私は私を愛していく。

ごめんなさい

2・3時間会話を交わす中、私は全く自分を守る術を持てずにいた。この様子をあの子が見てたら「私が日々伝えていた駆け引きの手立てを忘れたの?」と言われそうな位に、幼稚園並の防御力だった。何にも隠せなかった。私からモテたのに - 徒然なるaha日記

稲妻の人(名前…)と同じく昔上京した元彼と会いたくないのは自分が老けたからと言ったが、どちらかと言うと自分が夢を叶えて充実していたら、自分が老けようと太ろうと構わないタイプの人間だった。加齢やダイエットが気になるのは、今現在何も成さずに老ける内面の弱い自分が嫌だからだ。

そんな自信喪失した自分に、自分の力で叶えてて、それ以上更に挑戦していて、それがストライクな人だったから、トリプルパンチを喰らった。

負けて捕虜から生き延びた兵士みたいに、化膿した傷口のような漠然とした夢とも希望とも言ないモノを私は何年と直視出来ずにいた。そして、難関をクリアする人達を惚れているとは別の部分で羨ましく思っていた。でも、当時から世間の荒波にドップリ飲まれた価値観で、弱くて賢いわけでもない私が挑むには無理なものばかり。もっと心を整え、さらに手と足を動かし、頭をフル回転しなくてはいけなかった。

「夢」

様々な気持ちを脇に置いてみたら、この段階で、あの短い時間を回顧した中で、この単語が出ると思わなかった。不景気の中で私らしいに縛られた20代でもなく、他人軸で生きざる得なかった30代でもない。今しておかないと取り返しがつかない40代だ。

その人に拒否られたからこそココに書いている。私は器用に不倫ができないのがわかったし、過ごしているこの家で心身が辛くなって数年経ち、もうとっくに結果が出ているのを、自分の弱さでこの状況にいるだけだ。もう夫へも感謝を感じる日々になっている。娘の育児も夫の方が上手なのもわかっている。一人になるのが怖かっただけなんだろう。その人への感情は、多くの要素を含んだ重たいモノだった。

急がず、でも着実に自分で立ちます。

その人へ。旅立つあなたへ負担をかけて、ごめんなさい。

数年と1ヶ月は何を教えてる?

あれから1ヶ月は過ぎたのか。

このブログを書き始めて、様々なアップダウンいや、ダウンを経験したが、何かの前兆だろうか?表面的には静かな状態だけど、内面は荒波しかなかったここ数年と1ヶ月。もし運命の神様がいるのであれば、この感情は私に何を教えてくれているんだろう。何を自分はすべきだろう。ネガティブに引っ張られ過ぎている己をマトモになるように焚きつけろ。

今回2件の心療内科に行き、少し落ち着いたからか自分の症状くらいだと服薬しても副作用の方が大きいからと特に薬は貰わなかった。自力でどうにかせよってことか。カウンセリングにかかることをどちらからも勧められ、ネットで調べたところへ予約の連絡をした。

クノタチホちゃんのサイトで鼓舞させて、自分が作り出す苦しみをもがいている。

ameblo.jp

寝る部屋も別にして、リビングが苦しくなったらその部屋に引きこもり、朝に太陽を見て、季節の花を愛で、ひたすら街を歩きまくり、胃袋がサイン出したら残してでも食事を終わらせ、買わなくても美しいものを試着し、素晴らしい作品をスクリーンで観て、新旧洋邦問わずに音楽を聴いて、友達にLINEをする。本当は本も読みたいけど、まだ出来なかった。一つだけした面接は履歴書が戻ってきた。

なんか文章にしたらワガママだけど、他人を優先せざる得なかったにしても愛せなくなった自分のツケだから、まずは自分を立て直す。

次の新型コロナの波が来つつある。波に飲まれず飛んで行く。

 

コインは伝えてきた。「気を楽にしてあらゆる抵抗をやめよ。問題に正面から立ち向かうな。潜在意識に委ねよ。」「正しく考え、感じ、行う。時節を待て。」